定点

Côte d'Azur

立ち止まって、ひとつのものをずっと見つめる。 それが、僕にとっていちばん心地いい時間だ。

瞑想をはじめて、もう十年ほどになる。 普段の瞑想では、目を閉じて、自然な呼吸や体に生じる感覚に意識を向ける。 これは、それとは少し違う。 自分が美しいと感じた場所に立ち止まり、何も足さず、何も引かず、ただひたすら見続ける。

カンヌの旧市街。クレープ屋の前の路地に、目線の高さでカメラを置いた。 しばらくすると、買い物袋を提げた女性が歩いてきて、向こうから来た友人と頬を寄せて挨拶をする。 二言、三言。笑って、それぞれの方向へ去っていく。 フレームには、またさっきと同じ路地が残る。

見ていると、街は音楽に似ている。 最初に一定のビートがあって、人の足音がそれを刻む。 そこにバイオリンのように鳥が横切り、シンセサイザーのように風が木の枝を揺らす。 誰も指揮していないのに、全部がちゃんと鳴っている。

見続けていると、ある瞬間、見ている自分と見られている街の境目が薄くなる。 歩いていく人も、鳥も、風に揺れる枝も、それを見ている僕も、同じひとつの大きな仕組みの中にある。 この地球の上で、太陽のまわりを巡るシステムの中で、僕もまた、そこに生じている感覚のひとつに過ぎない。 普段の瞑想が自分の内側へ向かうものだとしたら、これは外へ向かう瞑想なのかもしれない。

正直に言うと、カメラがなければ、僕はこれをうまくできない。 人混みの中でずっと立ち止まって何かを見つめていたら、きっと変に思われる。 他人の目が気になる自分が、まだいる。 でもカメラを持っていると、不思議と堂々とそこにいられる。 カメラは記録の道具であると同時に、僕が立ち止まるための許可証なのだ。

そうやって一分、長いときは二十分以上、同じ場所を見続ける。 パリのポルト・ド・ヴェルサイユでは、曇り空の下、人々が足早に横断歩道を渡り、その向こうでトラムが静かに止まっていた。 コート・ダジュールの海沿いを走る電車では、窓際の席にカメラを固定して、窓と、外を眺める自分自身を撮った。

フレームに人が入ってくるたびに思う。 この人にも、この人にも、それぞれの朝があって、行き先がある。 一つのフレームを百人が通り過ぎれば、そこには百通りの人生がある。 僕はそのほんの数秒を、少し離れたところから見せてもらっているだけだ。

このブログには、そうして見つめてきた場所と、そこで感じたことを、淡々と置いていこうと思う。 誰にも急かされない場所に。

よかったら、少しだけ一緒に立ち止まってみてください。

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